本来、帰国するはずだった9月21日に倒れ、そのまま三日後、意識が戻らないまま亡くなってしまった母のことを、多くの方に状況をお知らせしなればならず、ヒロに戻り、私のメール開けたところ、多数の方々から励ましと、問い合わせのメールが届いていました。そこで、一晩掛かってこの文章を打ち、みなさんに返事としてメールさせていただきました。今、読み返すと、あまりに詳しすぎ、文章も拙いものですが、そのときやっとの思いで書いたもので、病状の経過も一番わかるので、そのまま掲載致します。
2002年12月 能丸千秋
メールをくださった皆様へ
2002年9月26日 能丸千秋
ハワイ時間の、9月23日(月) 午後6時22分。
日本時間でいうと、9月24日(火) 午後1時22分。
ホノルルにて、母・奥村成子が73歳の生涯を閉じました。
昨夕、ホノルルからヒロに戻り、みなさまから
たくさんの励ましのメールが届いていることを知りました。
数々の温かいことばが、疲れていた心に染みいりました。
どうもありがとうございました。
しばらく、一人一人の方にメールを書く時間が取れそうになく、
ハワイという遠い場所で、あまりに突然亡くなった母の様子を
みなさま宛で大変恐縮ですが、書かせていただきたいと思います。
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母は昨年の秋、検査で肝臓に中期の癌が見つかり、
そのまま入院し、暮れに手術をしました。
二度目の治療で、無事、癌を焼き切ることに成功し、
退院し、自宅でほぼ普通の生活ができるようになりました。
私たちがハワイに引っ越してから6年。
毎年2回、夏と冬はハワイに来ていた母ですが、
癌が見つかってからは、もうハワイに来ることも諦めかけていました。
この夏の検査では、新しい癌も見つからず、あまりの猛暑に、
お医者様から、「一ヶ月だけ、治療を中断して、ハワイに避暑に
行っていい」と許しが出て、お盆明けの8月18日、ヒロに来ました。
一ヶ月間、可愛くてたまらなかった孫の紘右(こうすけ)と過ごし、
「東京に1人でいると、こんなに笑うことはない」といいながら何度も笑い、
食事も毎回美味しく食べ、熱く流れる熔岩も、岩を踏み越え見学に行き、
本当に楽しい時間を過ごしました。
帰国予定が9月21日(土)で、いつもなら1人でヒロから日本へ
帰っていた母ですが、今回は、夫と紘右と私も、一緒にホノルルに
行くことにし、19日の夕方からみなでホノルル入りしました。
20日には、母と紘右と私で、片道2時間のバス旅を楽しみ、
シー・ライフ・パークに行き、ウミガメやオットセイに餌をやったり、
イルカのショーを見たり、3人で子供のようにはしゃいで過ごしました。
夜は、夫も加わり、佐々舟という、日本でもなかなか食べられないような
豪華な寿司をパクパク食べ、帰りがけには、癌に効くというアガリスクを
3ヶ月分買い込み、「嬉しい嬉しい」といいながら、ホテルに戻りました。
二室あるホテルの隣の部屋で、翌日、日本に発つための準備を
きちんと済ませ、一番お気に入りの服を揃え、母は1人ベッドに眠りました。
そして翌朝、私が気が付いたときには、母はすでに昏睡状態に
陥っていました。救急車で病院に運ばれると、脳内に大量の出血があり、
すでに危篤状態なので身内を呼ぶようにといわれました。
それでも、一応治療はしてみると頭を切開すると、出血はあまりに多量で、
もう手の施しようがないといわれました。
生命維持装置を付けられ、チューブだらけになった母は、
意識はありませんでしたが、何回も血を吐き苦しそうでした。
各内臓の機能も下がり始め、しかし頭の圧力だけは上がり、
治療もなく、生命維持装置で生かされているだけだと
いわれました。私の決断で、装置をはずしてほしいと頼むと、
「今外せば、お母様はすぐ亡くなります」といわれました。
そして、夜10時前、生命維持装置が外されると、
信じられないことに、母は1人で安らかな息をし始めたのです。
それでも、今晩中は保たないと医者はいい、私は特別に
集中治療室にいさせてもらうことになりました。
母は気持ちよさそうに息をし続け、翌朝10時、驚くことに
集中治療室から、個室に移されることになりました。
奇跡としかいいようがありませんでした。
個室は、付き添いようのベッド、シャワーとトイレがあり、
大きな窓から日が差し込み、ドアを閉めたらホテルのようになる
きれいな部屋でした。
母は依然昏睡状態のままでしたが、まるで穏やかに眠っているようで、
医者の、「聞こえているかもしれません」ということばに、
私は母との思い出を語り、ホノルルの友人に賛美歌を届けてもらい、
手を握って歌い続けました。
その日は、これは奇跡が起こり、母は回復すると確信するほど、
穏やかな表情で眠っているだけのように見えました。
しかし翌日、昏睡状態に陥って三日目の夕方、最後の呼吸を
静かにしたあと、母はもう二度と目を覚ますことはありませんでした。
母がもしヒロで倒れたら、1人ヘリコプターでホノルルに
運ばれなければなりませんでした。一人暮らしの東京で倒れ、
冷たくなってから発見されるようなことがあったらと考えるだけで、
胸が張り裂けそうになります。
母はまるで、この日と場所を選ぶがのように、最後に私たちと
忘れられない時間を過ごし、帰り支度を完璧に済ませ眠り、
そのまま三日間眠り続け、私に別れを告げる時間もプレゼントしてくれ、
そして永遠の眠りについてしまいました。
気が付くと、母が冗談交じりに、自分の死後どうしてほしいかという
ことを、私にたくさん伝えてくれていたことも知りました。
私が何も困らないようにしてくれたことを感じています。
いただいたメールの中に、「お母様は大好きなハワイにもう一回行く
ことができ、最後の楽しい時間を家族と過ごし、一人暮らしの
日本ではなく、お父様のいらっしゃる天国に帰られたのでしょう」
と、書かれていました。
私も、母は今、最愛の父のところにいるのだと信じています。
一人っ子の私にとって、現在山積み状態の事務的な処理に追われ、
悲しみに浸っている閑もありませんが、たくさんの方に支えられて、
この悲しみを乗り越えられると思っています。
9月29日(日)にヒロのカウマナ教会で追悼会を持ち、その後、
10月2日(水)に、母の遺骨と共に南沢の実家に戻ります。
本人の意向で、お葬式はせず、お香典も固辞致しますが、
母が行っていた、池袋のルーテル教会にて追悼会をしていただく予定です。
また改めてご連絡致します。
ご心配いただきましたが、私は体調を崩すこともなく、
小倉から駆けつけてくれた義母の美味しい手料理と、
わかっているのかわかっていないのか明るく笑わせてくれる2歳半の息子と、
身近で一番心配してくれている夫に助けられ、
ときに号泣したり、ときに日本との違いにびっくりしながらも、元気にしています。
このように、まだ気持ちも整理されていないままのメールを
送ることをお許しください。読んでいただき、ありがとうございました。
寂しくて寂しくて仕方はありませんが、去年の秋に癌が見つかってから、
心のどこかで覚悟していたことも感じている今です。
取り急ぎ、 能丸千秋
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