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にわか不動産屋さん <家を訪ねて三千里より続く> 1998年1月記 まず見た家の情報を入れた分厚いファイルをひっくり返し、記憶に遠い最初のころに見た家から、最近見た家までをひとつひとつ見直しました。表計算ソフトで作った一覧表とも何回もにらめっこをしました。そしてその75件分のリストの中からベストスリーを選び、1番目の家から値引き交渉をしていくことにしました。まずはそれぞれが自分のベスト3を決め、お互いにその結果を見せ合いました。不幸なことに選んだ家は違っていました。 夫は、とにかく暑いのが嫌いなので、1番に選んだ家は、「果物の木がたくさんある家」というニックネームの、庭にたくさん実のなる木が植えられている、そのため家にはあまり日が射さない、そのまま店ができるような立派なオフィスがある、大きな家でした。掃除をする私としては、そんなに広いリビングエリアはちょっと困ります。 私たちは、まるでお互いがその家のセールスマンであるかのように、自分の気に入った家の良さをアピールし、相手を説得しようとしました。しかしどちらもなかなか折れません。最後に私が「仕事にも出ずに1日中家にいて、出張中も家で留守番しなくてはいけないのは私で、長く1人でいることを考えたら、私は『果物の家』は暗くて広すぎて恐い」といったのが決定打になりました。夫が譲歩して、「水色の家」を1番、「果物の家」を2番ということにしてくれました。さて、3番目の家を決めようとしたとき、2人とも同じことを考えていることがわかりました。 以前、親しい日系人の友人が私たちにいいました「アメリカで家を買うときは、表示価格の3割引が当たり前だよ」と。そのときは「まさか」といって笑いました。でも2人とも本当は1番気に入ったけれど予算を遙かにオーバーしているので諦めた家があったのです。その家は1936年に建った、C.W.ディッキイというハワイの建築家が設計した「歴史的建造物」という指定を受けている家でした。私たちはそれを「ヒストリック・ハウス」と呼んでいました。実はどちらもベスト1はその家だと思っていたことを確認し合った私たちは、「3割引は無理でもその半分の1割5分引きになれば、どうにか予算範囲内だから、それで交渉を始めてもらおうか」ということになり、1番「ヒストリックハウス」、2番「水色の家」、3番「果物の家」という順番に決めました。 「ヒストリックハウス」の1割5分引きの値段をグレーンにいったとき、彼はその交渉価格の安さに小さく吹き出しました。それを見逃さなかった私は「グレーンが笑うくらいの値段だから、これは無理だ」と思いました。 彼がその日の午後から交渉に入るといっていたので、そのとき私はうちで何となくそわそわとしていました。グレーンから電話が入りました、「ヒストリックハウスのオーナーは、その値段を蹴った。次の家の交渉は明日する」と。やはり駄目だったかと思いながら、私は、「神様、水色の家の値引き交渉はうまくいかせてください。果物の家は絶対にいやです」と、祈りました。 しかし、その日の夕方にまた電話があり「ヒストリックハウスが希望価格よりあと10,000ドル高い値段まで下げるといってきた。明日、返事をしなくてはならない」と、いわれました。その晩は何となく興奮して眠れませんでした。2人でぼそぼそいつまでも話しをしながら、「あと10,000ドルなら、その値段でヒストリックハウスで手を打とうか」ということになりました。 翌日、グレーンのところに行ってその旨を話すと、あの笑った彼が、「いや、絶対に妥協しちゃいけない。あの値段ではないから駄目だ」と、今度は強気で、次の水色の家の交渉を始めようといいました。また私たちは家で待機していることになりました。こんな大きな買い物をするのは生まれて初めてですから、またそわそわどきどきします。しばらくすると電話が鳴り、夫が取りました。ニコニコしながらお礼をいっています。 ヤッター!「水色の家に決まったの!?」と、勢い込んで聞くと、「何と、ヒストリックハウスが僕たちの希望価格で交渉成立した。グレーンももう諦めて『水色の家』の交渉に入ろうと受話器に手を伸ばしたとたん、電話のペルが鳴って、向こうから値段を下げるといってきたらしい。その代わり3週間以内に家を引き取って欲しいということだから、これから大忙しだよ」と、夫は答えました。 でも、それからが本当に大変でした。これまでの人生で読んだ分以上かと思われる長い長い英語の契約文を読み、60年以上も経っている家なのでインスペクションを頼んで細かく家をチェックしてもらい、シロアリが付いていることがわかり消毒してもらい、何回も何回も書類にサインをし、保険を決め、家具を探し始め、電気・水道・ケーブルテレビの契約に行きました。でも2人とも嬉しくて仕方なく、近所の人が車を覚えてしまったかもしれないと思うくらい、何回もその家を見に、その住宅地まで車を走らせました。 調査の結果も全て良好、いよいよ契約です。エスクロという会社を通して、正式に権利書と家の履歴書と図面などを貰いました。契約に立ち会ってくれたグレーンがいいました、「おめでとう、淳一、千秋。この家は、歴代、有名になった人ばかりが住んできたのだから、淳一も有名な天文学者にならなかったら税金を取るよ」。そうです、ハワイでは、「文化財指定」の家は、勝手に家の改造ができない変わりに、固定資産税が1年でたった25ドルなのです。その変わり、年に1回、オープンハウスをする義務があるといわれました。 それから普通は、家の売買をするときオーナー同士は顔を合わせないものだと聞いていましたけれど、私たちはあまりに何回も家の中を見せてもらったため、前のオーナーと顔見知りになっていました。ご主人が元議員だったという年輩のご夫婦で、現在、家を9つ持っているから、このヒロの家はもう引き払って、これからはホノルルとラスベガスを行ったり来たりして住むのだといっていました。でも奥さんは、花が好きで、鳥が好きで、ヒロが好きで、この家と庭が大好きだから、ここを離れるのがとても辛いといっていました。私たちが年を取ったら、こんな夫婦になりたいと思うような温かくて愉快な2人でした。 今度は彼らから連絡があり、「この家は古い家だから使い勝手の悪いところがある。一緒にいろいろ引き継ぎがしたい」とのことでした。行ってみると、もう彼らが家を手放す1週間前というのに、家具と、ぎっしりある荷物は何も片づいていません。少し驚きました。 ご主人が、「ここの鍵はこうして締める」「この窓は開きにくい」「ここに隠し戸棚がある」など、懇切丁寧に教えてくれます。すっかりこの夫婦が好きになっていた私は、『私がここに越してくるとき、もうこの人たちはここから出ていってしまう。ヒロでこんなにいい方たちと知り合いになれたのに、私がここに来たらこの人たちはヒロにいない』と、矛盾した悩みに苦しむうち、とても悲しくなってしまいました。「自分たちは年だから、荷物はもう全部専門家に任せて、明日ここを離れます」と、奥さんがいったとき、とうとう私は涙が出てきてしまいました。 「ヒロに来てくださいね。そして、ここにも泊まってください」というと、おばあさんも「貴方が泣くから、私も涙が出てきたわ。ここは本当にいい家だから貴方たちは幸せになる。私たちも幸せよ」と、抱きしめてくれました。 1週間後、荷物が全てなくなったガランとした家の中に、彼らが持って行くはずだったシャンデリアが残っていることに気が付きました。とても美しいシャンデリアで、私が何回も感心して見ていた物です。でも奥さんがそのたびに眉間にしわをよせて、「それがガラスをアンモニアで1個1個拭かなきゃいけないから、もうすごく大変なのよ」といっていたのを思い出しました。彼女は、それを全部、メイドさんに頼んでいたのですが。 にわか不動産屋になったような4ヶ月を経て、私たちは無事、現在住んでいる初めての自分たちの家に住むようになりました。それも1年が過ぎようとしています。当初の私の希望は、「この静かなヒロの夢のような家で奥様としての優美な美しい日々を過ごす」というものでした。ところが、それは大いに甘い考えでした。 この家に引っ越しして、私たちは今度は不動産屋から大工にならなくてはなりませんでした。家に入って最初に、家に風を入れようと思い私が勢いよく階段の窓を上に押し上げて開けたとたん、ビシッ、ドシンと、とてもいやな音がして、まずその窓が開かなくなってしまいました。それからも次々といろいろなところが壊れます。我が家は、建って62年も経っているご老体です。 不動産屋、大工に続き、私たちは、鍵屋、水道屋、電気屋、ペンキ屋にもなりました。700坪の庭のため道具一式を揃え、夫は週末に一生懸命手入れしています。お金がないので、とにかく何でも自分たちでやっている私たちは、よく友人に、「この家には主がいなくて、庭師とメイドが住んでいるの」と、いいます。 憧れの、ハワイでの優美な生活にはまだほど遠い日々ですが、手間の掛かる子(家)ほどかわいいという気持ちで、遂に巡り逢えた愛しい我が家と共に今、幸せに暮らしています。 めでたし、めでたし。 |
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