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ここには、そのときどきの、私が思ったままのことばが書かれています。意味がわからなかったり、読むに耐えないことがあるやもしれないことを、最初にお詫び致します。ただ、私がそうであったように、同じ心の痛みを持った方が読まれ、「私も」と思われることがあればと、そのまま掲載することにしました。ここはこれからも日記とは別に、母に対する自分の気持ちを書き続けていくサイトになると思います。 2003年1月 能丸千秋 【1ヶ月後の散文】 だれと話したらいいのかわからなくて、自分で自分の気持ちさえわからなくて、最近、お母様を亡くされたIさんに国際電話した。それでとても救われた。落ち着いた。同じ心の痛みを持った人は、何てわかりあえるのだろう。 そして、大事なことを教えてくれた。夫に感謝すべきということ。いつまでも回りに甘えていてはいけないのだ。母を失った大きな穴は、自分にしか理解できないのだ。 ねむろう。安心して。人と話すことで安堵する。
駆け足で、あっという間に一ヶ月が過ぎました。 父が亡くなった後も、同じような夢を何回も見ました。
両親との別れというものは、殆どすべての人が経験し、そして、それを乗り越えていくものと思っています。この悲しさに押しつぶされそうになっているのはこの世で私だけではないと頭ではわかっているものの、やはり今は寂しくて胸が張り裂けそうです。 13年前、父が亡くなったとき私はまだ独身で、母と、いやというほど父のことばかり懐かしんで話し、しばらく私たちのときは止まっていましたが、それで構いませんでした。でも今は、私も自分の家庭を持ち、3歳の息子がいて、仕事をもつ夫がいて、ここで1人母を失った悲しさに浸って足踏みしているわけにはいきません。私はいつのころからか、自分を癒す一番の方法は、思ったことを拙いけれど文章にすることだと悟りました。 何の宛もなく、母との思い出を文章にして、飽和状態の私の心の中から、少しずつ外に出していこうと思います。 【母と天国】 父が亡くなってしばらくしてから、母は染め物を習い始めました。その作品の中に、「天国」という題の大きなろうけつ染めがありました。そこには、母の大好きだったもの、うちで飼っていた3匹の猫。私が小学生のころ飼っていた一羽のオンドリ。雀や文鳥たち。そして、愛してやまなかった野草や野の花など、父の姿こそ描きませんでしたが、母の愛するもので満たされていました。ろうけつ染めで、絵柄も日本的で、観た方に、「天国より、極楽の方がぴったり」といわれたりしましたが、母はその絵のような世界に行ったのだと思っています。 7年前、私たちがハワイ島のヒロに移り住み、母も私を訪ねて合計12回ヒロに来ました。最初の半年は、ヒロで一番大きな建物といわれるヒロ・ラグーンというマンションのようなところの9階を借りて住んでいました。明るい部屋と、素晴らしい眺め、目の前が自然豊かな公園で、母も大満足でそこに滞在していました。 10月2日、私の膝の上にちょこんと乗るくらいに小さくなった母の遺骨と共に、東京の東久留米市にある実家に戻りました。まさかこんな形で、予定より10日遅く、ここに戻ってくるとはだれも予想だにしなかったことだと思いました。しかし私はすぐに、母がどれだけ身辺整理をしていたかということを、いやというほど思い知らされました。古いアルバムの写真をクラスメートに送り、「これだけは整理してね」と頼んでいた引き出しの中も、すっきり片づいていました。不甲斐ない娘は、「お母さん、身辺整理のし過ぎ」と、泣くしかありませんでした。 去年の10月、母に中期の肝臓癌が見つかり、2度目の治療で癌を焼き切れたとわかったとき、お医者様は、「それでも貴方の余命はあと5年です」と、おっしゃいました。そして、「細く長く生きるか、太く短く生きるか、貴方が選択してください」とも。母は、相当悩んだ末、ある日、「千秋、私は太く短く生きることにしたからね」といい、生まれ故郷の神戸を訪ね、ハワイを再度訪れる決心もしたようでした。 そして今回のハワイ滞在の一ヶ月は約一年ぶりで、非常に楽しみにしていた反面、回りの大勢の人たちに、「自信がない」と話し、「ホノルルの乗り換えで、間違えて天国に行かないように注意しなければ」と、冗談のようにいい残していました。
【三ヶ月後にやっと書き、皆様にお出しした(1月7日の時点で、まだ手元にあります。これからお送り致します)ご挨拶状】 新しい年を迎え、皆様いかがお過ごしでいらっしゃいますか。ハワイでは、世界情勢の不穏な空気を振り払おうとしてか、例年になく豪快な爆竹の音と共に年が明けました。町全体が白い煙にすっぽりと沈むほどでした。 昨年の9月23日、突然母が他界してから、あっという間に三ヶ月余りが過ぎました。皆様へご挨拶を出そうと思いつつ、現実逃避、虚無感などに苛まれ、無駄な時間を過ごして今日まで来てしまいました。最近、亡き母から、叱責されている気配をひしひし感じ、こんなことではいけないと自分を奮い立たせました。本来ならばすぐにお手紙を差し上げなければならないところ、このように長くご無沙汰してしまい大変失礼致しました。心からお詫び申し上げます。 生前、母に対して賜りました多くのお心遣い、この度、悲しみに暮れる私たちを、駆けつけ励まし、また、遠くから支えてくださり、皆様にはことばではいい表せない感謝の気持ちでおります。ありがとうございました。お陰様で私たち三人は元気に過ごしております。ハワイにいると、ただ母の写真を見て、花を飾り、母との思い出を噛みしめて過ごしていられるのですが、短い日本帰国の折には、事務手続きに奔走させられ、忙しさと寒さで体調を壊してしまいました。しかしこの初春には、書類仕事の続きを済ませに再び帰国する予定でおります。 2001年の秋、母は、長く患っていたC型肝炎から、中期の肝臓癌となり、癌治療は成功したものの、医者から余命あと五年と宣告され、家族全員大変動揺いたしました。しかしだからこそ、残された時間を大切にしたいと思い過ごしていた矢先、それから一年も経たずに脳出血で他界してしまうとは思いもよらないことでした。 私は一人っ子で、父も13年前に逝去し、母を大変に心の拠り所としてきました。心にぽっかり空いた穴は塞ぎきれず、この三ヶ月も、日常は普通にしていても、ふっと涙の栓が外れると、そのまま号泣してしまうことがしばしばでした。今もときどき、「おばあちゃん」と呼びかける、母にとって唯一の孫・紘右は、もうすぐ三歳です。生前、「おばあちゃんはきっと、貴方の成人する姿は見られないわ」といいつつ、「紘右が車を運転できるようになったら、おばあちゃんをドライブに連れて行ってね」と、嬉しそうにいっていたことが思い出され、胸が痛みます。 「父は私が9歳になったばかりの2月の雪の朝、2.26事件と呼ばれるクーデターの犠牲となって死にましたが、この9年間に、私は一生涯分の愛を父から受けたように思っています。 この文を読み、母も心が弱い私のため、遠く離れた日本で亡くなるのではなく、私の側で倒れ、私に最後を看取らせてくれたのだと思えるようになりました。目の前で倒れていた母の姿を思い出すと辛いばかりでしたが、それは最後の大きな贈り物であり、真摯に受け止めなければいけないと思うようになりました。 私はこれまでも文を書くのが好きでしたが、母も或いは、そうだったのかもしれないと思われるほど、たくさんの書いたものが見つかりました。倒れる前日に撮ったデジタルカメラの写真も、そちらに置きました。インターネットをご覧になれる方に、見て頂けましたら幸いです。 この度は、母との間の認識だけで、お葬式もせず、お香典も辞退致し、皆様には多々失礼がありましたことを深くお詫び申し上げます。至らないことが多い私たちではありますが、これからもどうぞよろしくお願い申し上げます。
2003年1月4日 故・奥村成子娘 能丸千秋
最近、母が最もお気に入りだった写真。クッキーを頬張る紘右と。
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